I NOW WALK

雑多なことをつらつらと。しばらくクライミングが中心です。

キャリステニクス ー壁面を舞うー

 短い間隔で息を吐き、手と足の指先が岩に触れている部分に、全神経を注ぐ。全長16、7メートルのルートの終盤、苦しい体勢から上半身をよじるようにして、上部のポケットに左手をガストンで決める。そして、体の揺れをパワーで押さえこみ、同じポケットに右手をそえる。観音開きの体勢で、がっちりと安定する。全体の3分の2を越えたこの場所に来ると、不思議なことに突然、上昇気流に包まれる。気のせいだろうか。「ヒュオー」という音ともに、僕は突然、人っ子ひとりいない渓谷の大岩壁に、へばりついているような錯覚に陥る。一進一退の勝負をかけた「ロッククライミング・ゲーム」の会場へと誘われたような感覚を得るのだ。絶対に落ちたくない。いや、絶対に落ちることはできない。鷹が周囲を旋回し、壁にへばりついたまま動けなくなっている僕を眺めている。気流の流れはチョークバッグを揺らし、Tシャツをパタパタとめくりあげる。あおられた不安が焦りにつながり、指先がじわっと汗ばむ。そうだ、ここはビッグウォールの核心部なのだ。

 この先の6手をこなすためだけに、ここに来た。下部のムーブは自動化され、考える間もなく、ここに到達することができる。しかし、この先の6手を編み出すのに、3か月もかかってしまった。季節は春へ移ろい、指は岩の表面に出てきたぬめりを、確実に感じるようになってきた。暖かくなったので、半年ぶりにトカゲも穴から姿を現す。僕が次の一手を出そうとするその先に、アリや毛虫が這っている姿も見るようになってきた。「ちょっと急いでくれないか。そのホールドがつかみたいんだ・・・」。

 核心の2メートル、6手のムーブは、頭では分かっている。まず、右手で上部の掛かりのよいポケットをつかみ、左足を20センチ上げて、体勢を整える。これで1手。慎重に、慎重に、気を遣いながら右手と左手を入れ替える。2手。まだ余裕があるので、右手をしっかりシェイクし、チョークアップ。右手で上部のカチをとらえ、さらに左手をシェイク、チョークアップ。3手。ここからがすべてだ。覚悟を決め、左右の足を、上段のきわどいホールドに乗せ替えて安定させる。そして、ホールドと呼ぶのもむなしくなるような突起に、右手をそえる。人差し指、小指、親指、それぞれに課された役割があり、ちょっとのズレも許されない。この時の指の感触で、落ちるかどうかが大体分かる。きょうは、まだ大丈夫だ。4手。そして左手の中指を、外傾したフィンガーポケットに押しつける。5手。この時点で、手から足にかけて、きれいな二等辺三角形が完成する。上昇気流の音は、もう気にならない。意を決して、膝の高さにある穴に右足を突っ込み、体重をかけて立ち上がる。そして、デッド気味に右上にあるガバホールドに向けて飛びつこうとした瞬間、体は宙に放り出される。「ギギッ」とマイクロトラクションがロープに食い込む鈍い音がして、体に衝撃が伝わる。岩に向かって罵声を浴びせるが、反応はない。ただ、むなしくなるだけだ。「ちくしょう、まだ、だめか・・・」。

 この岩があるのは、三浦半島鷹取山。もろい砂岩ゆえに、トップロープによるクライミングしか受け付けないため、世間的には、フリークライミングの岩場としての役目を終えたと認識されている。だが、僕は1年以上、足繁く通っている。人がほとんど登っていないルートをあえて好んで登るうちに、初登したつもりになってルートに名前をつけ、遊ぶようになった。

 この課題に初めて出会ったのは、2020年11月頃だったと思う。この課題の一本右にある課題を、数日のトライで完登し、「アーバンサバイバル」と名付けた。体感グレードは5.11d。アーバンサバイバルにも当然、もとから付いている名前がちゃんとある。「スイートマッシュルーム」。グレードは5.12ーだ。砂岩のさだめとして、ホールドが摩耗したり浸食されやすいため、すでに付けられたグレードは、参考程度といったところだろう。そして、アーバンサバイバルを完登するかしないかの頃、今回の課題にも手を出し始めたのである。「ソルティマッシュルーム」。グレードは5.12となっていた。

 全体的にホールドがかなり乏しいが、繰り返しトライを重ねると、なんとかムーブで解決できることが分かってきた。一本指ポケットで体重を支えるきわどいムーブや、ハイステップを織り交ぜれば、中間部まで到達することはできる。ここに、最初で最後となるガバホールドがあり、好きなだけ休むことができる。この先は、剥がれ落ちそうになる体を、体幹の力で支えるつらいムーブが続く。そして、冒頭に書いた終盤の2メートルの核心パートにたどり着く。核心までは、繰り返しトライを重ねることで、体がついてくるようになった。

 2021年1月、問題の核心部に取りかかるが、絶望感に打ちひしがれた。まったくホールドがない。最上部には、お椀のようなガバホールドが突き出ている。どんな形であれ、これを右手でつかむことができれば、あとは力ずくでも岩の上に這い上がれるだろう。だが、それをつかむまでのおよそ2メートルに、ホールドがないのだ。ロープにぶら下がり、ワーキングを繰り返す。いろいろな体勢を試したが、立ち上がることさえできなかった。過去に登られてはいるようだが、ここは鷹取山。ホールドが変わってしまったということも考えられるだろう。そんな時、耳寄りな情報がもたらされた。この岩場に通い続ける75歳の男性Aさんが、去年、この課題を登った男を見たというのだ。「何十年も通っている人で、何回もやってようやく登ったと言っていたよ。これまでにちゃんと完登したのは、数人じゃないかな」。そう聞くと、どうしても登りたくなってしまう。再び燃えるものが湧き上がってきた。

 気がつけば、ひたすらワーキングを繰り返す日々になっていた。一時間以上ハングドッグでワーキングを繰り返す。何度もずり落ち、そのたびに粒子の粗い砂岩に、指皮が削られ真っ赤に変色する。鷹取山のホールドは触っているだけでも砂が落ちてくるし、時には塊ごとペロッと剥がれ落ちてくることもある。この調子で、指やクライミングシューズとの摩擦で砂が削られ、新たなホールドができてくれないかと真剣に祈った。だが、顔に降りかかる砂の量とは裏腹に、壁に新たな突起が出現することはなかった。

 過去に誰かが登っているならば、絶対に可能性があるはずだ。確かに、絶望的にホールドがないと思っていた最上部2メートルには、わずかだが足先を乗せることができる特徴的な穴や、指先がほんの少しかかりそうな粒のような突起があることが、段々と分かってきた。当初、見ただけでホールドにならないと決めつけていた代物だが、体重のかけ方や、微妙な体勢の違いによっては、一瞬だけ体を保持することができる。そして、ワーキング開始からおよそ2か月がたった3月上旬。ついにムーブを解決した。左右の足を広げ、指で粒のような突起をつかむことで、体が安定。右足を上げて、上部のおわん型ガバホールドに飛びつけば、右手で体を保持することができたのだ。この2メートルだけを切り出せば・・・登れる。

 しかし、ここから本当の戦いが始まった。下部は完全にムーブが固まったとはいえ、ある程度、指や前腕の力を必要とする。その上で、最上部できわどいムーブをこなさなければならない。なかでも、最もやっかいだったのが、指皮の消費だ。特に、最終ガバホールド手前にある粒をつまむ右手人差し指と、右手小指の摩耗が激しい。この2本が保持力を失えば、完登はできない。1日の登りが終わったら、必ず火傷用軟膏剤「メモA」を塗り、ビニール手袋をして就寝し、皮の回復に努める。だが、どんなに指皮が回復したとしても、3~4回のトライで皮が赤くなり、保持力を失うのが常だった。ムーブを発見した3月上旬以降、ひたすら岩に通う日々。毎回同じ動きをし、同じ場所で落ちる。ワーキングを繰り返し、ミリ単位で動きの無駄を省き、調整する。その繰り返しだ。

 オンサイトクライマーでありたいと思っている。僕には理想のクライミングスタイルというのがある。たとえて書くなら、こんな感じだろう。

 快調に岩を登り始めていたが、次第に前腕に乳酸がたまり、パンプしてくる。適度なホールドを見つけ、片腕ずつシェイクを繰り返しながら、これから待ち受ける上部を見つめる。触ってみるまで、どんな形状をしているのか分からないホールドを想像し、ムーブを組み立てる。パートナーに「いくね」と声をかけ、レストの体勢から1手、手を伸ばす。思い描いていたホールドの形状と違う。冷や汗が首をつたう。指先には汗がにじみ、ホールドをつかむ指が、次第に保持力を失っていく。このままでは、落ちる・・・。覚悟を決め、足を高いホールドに上げ、一時的に不安定なムーブを繰り出す。そうすると、これまで届かなかった場所に手が届き、かかりの良いホールドをみつけた。ようやく体勢が安定した。よし!わずかだが、頂に近づいた。安堵もつかの間、再び上部をにらみつけ、次に待ち受けるルートをうかがう。

 ギリギリの、一進一退のネチネチとした動きの繰り返しでたどり着く頂。それが僕の理想のクライミングだ。だが、今回のクライミングは違った。すべてのホールドが頭に入っている。こなすべき動きも、レストをする位置も、タイミングも、嫌というほどわかっている。それなのに・・・。

 3月27日。雨の予報だが、壁に向かう。林道を歩いていると、中国人とおぼしき女性に声をかけられる。どうもクライミングの講習会に来たらしいが、雨予報で講習が中止になったことを知らずに来てしまい、困っているそうだ。話を聞きながらも、急いで課題のある岩場に向かう。「クライミングに来たのか」などと聞いてくるが、適当に相づちを打ち続ける。時間がある時なら、「困っているなら、一緒にクライミングをしますか」などと言うかもしれないが、いま、僕の頭は、壁が濡れているかどうかを確かめたくていっぱいなのだ。岩場にたどり着くと、壁は乾いていた。力が湧いてくる。準備をしていると、今度は、何度か立ち話をしたことのある若いクライマーの男性が声をかけてきた。朝早くから登っていたが、雨が降りそうなので切り上げると言っている。これから取り組む課題や、他の地域の岩場について会話が広がるが、その話題も早めに切り上げる。雲の流れが速い。トップロープをセットするため、足早に岩の上部に回り込む。懸垂下降で降りながら、岩を触って乾いていることを確認する。ブラッシングで、たまった砂を取り除く。よし、行くぞ・・・。

 登り始め、すぐに中間部のガバに到達する。必要以上にレストを重ねていると、雨粒が顔に当たってきた。やばい・・・。すぐに登りを再開し、核心に到達した。きょうも上昇気流が出てきた。細かい雨粒が風にあおられて顔や腕を濡らす。ここは本チャン、数千メートルの岩壁の核心。雨だって降ることはあるだろう。だが、落ちる言い訳には、ならない。一気にムーブに入るが、雨を気にしすぎたか、焦りがでて体勢が不安定になってしまった。右足を上げた時点で足が滑り、あえなくフォール。ちくしょう・・・。

 まだだ、体が温まった2度目のトライの方が上手くいくのは、経験から知っている。すぐに下降機をセットし、取り付きに降りる。雨はパラパラと降っているが、まだ壁はもつかもしれない。中国人とおぼしき女性と、若いクライマーの男性は、近くのトンネルからまだ見ていた。ほとんどレストをせずに、次のトライに入った。壁は多少濡れているものの、下部は集中すればこなすことができる。中間部に差しかかったとき、一気に雨粒が大きくなり、激しく顔に打ち付けてきた。まずいぞ・・・。中間部のガバの右上にある外傾したスローパーホールドに右手をそわせ、右足、左足とハイステップ気味にあげていく。しかし、左足をあげきったところで濡れた岩に乗せたシューズが滑った。マイクロトラクションの鈍い音ともに、体に衝撃が伝わった。一度も落ちたことのない場所だった。雨粒は容赦なくうちつけ、目の前の壁が、どんどん濃く染まっていく。シューズも、ズボンも、あっという間にずぶ濡れになった。きょうも、駄目だった・・・。

 同じ動作を繰り返すことに、何の意味があるのか。結果としてひとつの壁を登り切れたとして、そのクライミングに価値があるのか。疑問は、ますます深まっていった。この課題を完登した先に、何か得るものがあるのだろうか。核心だけを切り出せば、スポーツとしての動きは可能だということは、すでに証明された。だがこれ以上、ルートをつなげる必要はあるのか。暗澹たる気持ちに覆われているときに、ふと、故・吉田和正が雑誌のインタビューで発していた言葉が、頭をよぎった。『岩と雪 BEST SELECTION』を本棚から引っ張りだす。自身のクライミングスタイルについて尋ねられた吉田は、こう話していた。「難しいルートを死ぬほどハングドッグして、最後に下から上まで一気に登る。それが俺のクライミング」。「そしてその可能性をどんどん広げていく。そんなところだな」。シンプルで明快な哲学である。吉田の思想に改めて触れ、そのシンプルさが、僕の迷いを吹き消してくれたような気がした。

 4月4日。気温が上がり、岩がぬめり出す前の、早朝の時間帯から登り始める。だが、相変わらず核心で足が滑ってしまう。この日の、4登目。指の皮がすでに岩を拒否し始めていることを薄々感じていた。このトライが最後になるだろう。そんな思いで登り始める。ラスト2メートル。核心に差しかかったところで、いつもの上昇気流に包まれる。あたりの空気が突然変わり、岩と僕の真剣な対話が始まる。なぜか、いつもと違って気負いがなく、頭が冷静だった。腕をいつもより多く、2度シェイクすることができた。これで前腕が生き返った気がした。指をそれぞれ、決まったホールドに配置する。指が岩に吸い付く感触が、これまでにないほど高次元に達していた。指の力が、確実に岩をとらえている。「これは・・・・」。

 その感触は確信に変わり、支持力を得た両手の指を支えに、右足は確実に上部のポケットに配置された。デッドした右手は、言うまでもなく、お椀型のガバホールドをとらえた。取り付きから頂まで、一本の線でつながるような新鮮な感覚が、体に走った。

 「キャリステニクス」。この課題の核心2メートルのムーブが解決した3月上旬頃から、すでに自分で付けるルートの名前を決めていた。キャリステニクスとは、「古代ギリシャの『美』を意味するkalosと『強さ』を意味するsthenosを組み合わせたもの」だという。自重と慣性のみで自らを鍛えるトレーニングのことをそう呼ぶ。ワーキングを通じて無駄が省かれ、洗練されていくムーブと、確実に強くなっていく自分を見ていて、この名前にしたいと思ったのだ。

 過度なハングドッグの結果としてレッドポイントを達成するというクライミングスタイルには、批判も多い。僕も、オンサイトクライマーを目指しているし、冒険的な要素を残したクライミングが好きだ。オンサイトがかなわなくても、未知の部分を少しでも残した状態で、数回以内のトライで完登するスタイルを好む。だが、執拗なトライの末に完登した「キャリステニクス」にも、冒険性は残っていたと思う。上部の核心2メートルにたどり着いた時に感じる上昇気流。あのとき僕は間違いなく、誰もいない大岩壁の核心部にいたのだ。ジムナスティックな困難の追求の先にたどりついた標高130メートルの頂で、僕は、甲高い鳴き声を上げて渓谷を舞う大鷹を見た気がした。